「いつも喜んでいなさい(聖書)」、と言われても、「そんなことはできるはずもない」、と思うのが、普通の反応でしょうか?
この解釈として、一つ言えることは、、、。
的をいる場合に、ダーツでも、弓やでも、あるいは、射撃でも、的の真ん中を
射抜くように、ねらい撃つでしょう。
でも、なかなか、真ん中に行くことは少ないかもしれません。でも、最初から
的の、外側を狙う人はいません。
それと同様に、いつも喜んでいるように、その状態を狙うけれども、
私たちが、ある時は悲しみ、ある時は、怒ってしまったり。
でも、やはり、いつも喜んでいることをねらう、というのが、
正しい信仰の姿勢であるということだと、思います。
そして、すべてのことを心から、感謝するのは難しいことかもしれませんが、
形だけでも、口先だけでも、すべてのことについて、感謝の祈りを始めていく時に、
いつも喜ぶことに近づいていけるかな、と思わされます。
聖書の言葉を、最初から否定する反応ではなく、そこに何か祝福の秘密がある
ことを、探すような姿勢で読んでいくときに、不思議な祝福を私たちは
見出していくことができます。
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