そうはいっても、信じてもらえない人は多いかもしれません。
あるいは、今の状態を、普通に思えて、恵みであると、思えない人が、多いかもしれません。
つまり、昨日の話の続きです。
私は、田舎にいた時に、クリスチャンになりました。その田舎町には、教会がなかったので、隣町に、自転車で通いました。30分ぐらいですかな?そこでは、第一コリント13章(よく、結婚式で出てくる箇所で、愛の箇所です。)のお話は、するのですが、(聖書のことです)12章や、14章のお話には触れないので、不自然な感じでした。どうしてなのかな、と思いつつ、質問はしていなかった感じでした。12章や、14章には、カリスマの話、癒しや、預言や、異言や、奇跡のことが出てくるのです。現代においても、預言があり、いやしがあり、奇跡があるのです。聖書通りに。しかし、田舎の教会では、それを信じていなかったし、そのようなことは、ほとんど、起きていなかったのです。
今、聖書通りのことが、起こるのだと言っても、信じてもらえないことが多いのかもしれません。あるいは、体験している、私の回りの人々には、それが普通のことに思えて、あまり恵みであると、思えない人が多いかもしれないです。
ですから、今も、聖書通りの奇跡が起こると信じれるのは、恵みであると主張したいんですね。信じれるというのは、特別な恵みなんですね。
神を信じれるのは、恵みですが、どのぐらい聖書で書かれてあることが、本当か、信じれるのも、恵みです。あるいは、人を信じれるのも恵みですね。
信じるまでは、「そんなことありえるか?」と思うのですが、信じてしまうと、そいうことが起こるのは、普通と、思うんですね。
結局のところ、人というのは、あくまで、自分中心に出来てるんですね。
こういう考え方って、面倒ですかね?抽象的で、困る、難しい考え方ですね。
でも、こういうの、好きな人もいるんですよ。
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